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● 時のメロディ番外編『最後のコンサート』 --- 10,最後のコンサート(1) ●

 この日、青葉台交通本社の事務所にある、純一の机の上には、アイドル『朝風ルナ』のコンサートチケットが封筒に入ったまま置いてあった。この日は、彼女にとって、引退前の最後のコンサートなのである。純一は、自分の仕事が終わってからでも十分間に合うと考え、今日も仕事を入れていたのだ。ただし、今日は路線バス運行の仕事には入らず、社長としての執務を行っていた。
「いよいよ、今日ですね」
「そうだな。あの日のコンサートから、随分とひっぱったな」
 既に引退会見から半年以上は経過していた。会見から一ヵ月後に『朝風ルナ ラストコンサート』と銘打ったコンサートも開催された。今日行われるコンサートで、実質上2度目のさよならコンサートとなる。これは、前のさよならコンサートを見ることができなかったファンにとっては、まさしく福音だっただろう。
「見に、行かれるんですよね?」
「勿論、見に行くさ。前のコンサートと同じく、直々にチケットを送られてきているにはさ」
 コーヒーが入ったカップを、純一の机に置きながら、高橋は尋ねた。1度目の時は、見に行くことに消極的であった純一ではあったが、今回は前向きなようだ。
「それに…。最後の晴れ姿ですもんね。アイドル『朝風ルナ』としての」
「なら、何で最後に、DAシスターズのメンバーとして、はなむけしてあげないんだよ」
「コンサートの中で、『DAシスターズ同窓会』というのをやるんですよ。だから、今から行くんですけどね」
「そうか。DAシスターズが好きだった俺は、ちゃんと行かないといけないな。二重の意味で」
「ちゃんと来てくださいよ? コンサートのステージ上で、待ってますから」
「分かった。集合時間にかからない程度に、早く行ったほうがいいよ」
 この日のコンサートで、高橋はアイドルとして一度きりの復活をする。松本は、チケット発売開始当日に、この話を聞いたら、一目散にチケットを買い求めに行った。結果は当たりらしく、今日は休んでいる。
 北沢も休んでいるので、今日はライブ観賞のために、エネルギーを温存しているのだろう。
「分かりました。そういう社長も、早く来てくださいよ?」
 高橋はそう言うと、他の事務社員やデスクワークをしている運転手に挨拶すると、支度をして事務所を出て行った。
(今度は、胸張って聞きに行けるよ)
 純一は、事務所を出て行く高橋を見送った後、コーヒーに口をつけながら、チケットに目を通した。

 それから一時間後、一本の無線連絡が入ってきた。
 書類に目を通していた純一はその手を止め、無線機を手に取った。
「こちら、青葉台交通本社。2457号車、応答せよ」
『2457号車、高村です。青葉台市街地で事故しました。今、市役所前バス停で立ち往生しています…』
「何だって!? それで、状況は??」 
『交差点から急に出てきた、大型観光車にぶつけられてしまい、タイヤとかをやられて動けなくなっています。一応、警察の方に来てもらって交通整理とかをやってもらっている状態なんですが…』
「…分かった。すぐに代替を手配するから、もう少し待ってもらってくれ。ちなみに、それはバスセンター行の方か?」
「いいえ。神崎駅行のほうです」
 急いで、運行表を再確認すると、既に神崎駅へ向けて、青葉台駅を発っていることになっている。
「俺が間違えていた。すぐに行くから」
 純一は、急いで2442号車のカギを取って、乗務用の支度を整えると、会社のところにある黒板の自分の欄に『代替運用』と書き、事務所を出ようとしたところへと、夕方の送迎バスの運転を控え、デスクワークをしている運転手・青島が声をかけた。
「社長、これから何処へ?」
「高村が事故を起こしたから、急遽、代わりに乗務しなければならなくなった」
「でも、ライブはどうするんですか??」
「…そんな事聞かれないでも、分かっている!」
 少し怒り気味に返事をすると、大急ぎで事務所を出て行った。
「…大丈夫かな」
「それなりに考えているとは思いますけど…」
 青島と、事務社員の水森が顔を合わせて、社長が運転するバスが出庫していくのを見送った。

 青葉台バスセンターから2つ目のバス停の近くで、高村のバスが立ち往生していた。既に警察の人も到着しているらしく、パトカーが停止し、警察官の何人かは交通整理をしていた。純一はすぐさま、バスを路肩に停止させて、警官にことを話しつつ、高村のところへ駆け寄った。
「大丈夫か?」
 警察官に事情を聞かれている高村の元へ駆けつけると、すかさず高村が怪我していないかどうかを心配した。
「大丈夫です。しかし…」
「バスは修理すれば直る。とにかく、お客さんを何とかしないとな」
 高村が運転していたバスには、青葉台駅を出発した地点で、14人もの乗客が乗っていた。それらの乗客が待たされていることを知った純一は、乗客を、純一が乗ってきたバスに移ってもらうことにして、車両の中へと入っていった。
「車内のお客様。大変ご迷惑をおかけいたしております。このバスは、走行することが出来ませんので、代わりのバスを準備いたしました。申し訳ございませんが、後ろのバスに乗り換えていただきますよう、お願いいたします」
 純一は、高村が運転していたバスから、自分が乗ってきた2442号車へと乗客を誘導した。全員が乗り込む少し前に、高村と警察官が見聞をしているところに声をかけると、レッカー移動は神崎バス工業に依頼するようにお願いをし、高村には事後処理などを、しっかりするように言った。
「高村、後は任せて、車両移動とかの事後処理は、頼むぞ」
「…はい、分かりました」
 それから、急いでバスへと戻り、車の流れを見てから、急いでバスを発車させた。
「大変お待たせいたしました。それでは、神崎駅前行、発車いたします」
 この地点で相当な遅れが出ている。今から、この遅延をどれだけ縮める事が出来るか、純一は乗務しながら、それだけを考えていた。

「まだ、来ないのかな…」
 午後7時の開演を1時間後に控えているコンサート会場。既に開場時刻を向かえ、コンサートを見に来た観客が入り始めたそのころ、楽屋前の通路からステージ衣装に身を包んだ高橋が、会場へ入る順番が来るのを待っている客の列を見ながら、携帯電話を見て、ため息をついていた。
「藤本さん、何かあったんですか…」
 その時、エレベーター付近で警備員と、1人の男がもめていた。よく見ると、その男とは、ファングッズとかを手に持った松本であった。
「ダメですよ! 関係者以外は立ち入り禁止です」
「…高橋香織さんの関係者です!」
「すみません。私が頼んで来てもらった人ですから」
 楽屋のある階のところで、松本が警備員に制止されるが、高橋が警備員と松本が揉めているところへ行って、事情を話して通してもらった。
「やっぱり、大勢集まっているね…」
「それどころじゃないのよ…。開演時刻が迫っているというのに、まだ藤本さんが、会場に来ていないのよ」 
「えっ??」
「普通なら、来ていてもおかしくないのに…」
「どうしたのかしら…。会社にかけてみる」
 高橋は、携帯電話で会社へとかけた。もし、まだ純一が会社にいるのであれば、急いで来るように言うつもりであった。
『はい。青葉台交通でございます』
 電話口に出てきたのは水森だった。この時間であれば、既に事務職員は帰っていてもおかしくは無いが、事務所が留守か何かのため、今も残っているのだろう。
「もしもし? 水森さん?? 高橋です。社長は、そこにいますか?」
『…社長は1時間前に、事故した高村さんの代わりをするのに、バスを運転して出て行きましたよ?』
「えっ??」
 高橋は驚きを隠せなかった。会場にいる、或いは向かっているのではなく、会社にいるでも無かった。
 まさか、事故を起こした運転手の代わりに、路線バス運行に出ているなんて、夢にも思わなかった。
『社長には、無線で連絡を取ったんですが、『もう行くことは出来ないと、諦めている』と言って、切られてしまいました』
「代わりを務められる、運転手はいないの??」
『それが…。今日、出勤している運転手のうち、控えの運転手として出勤していたのは、青島さん1人だけで…。その青島さんも、今はまだ、幼稚園送迎バスの運行から帰ってきていません』
「…何とか、連絡は取れないの??」
『一応、無線で呼び出してみます』
「お願いね」
 電話が切れたあと、高橋は自分の携帯電話をすぐそばに置き、すぐに受けられるようにしておいた。 
 時間は午後6時過ぎ。幼稚園の送迎バスの運行は既に終わっているはずだと、水森は無線機器で、青島を呼び出した。
『はい。こちら、2537号車』
「青島さん。今は、何処?」
『幼稚園に戻ってきたところだ。職員さんを下ろすのにな』
「今から、急いで戻ってきてください。あなたに、急な用事があります」
『何だよ、それ…』
「この用事は、今の青島さんにしか出来ない用事なんです。無論、無理なら断ってくれてかまわないけど…」
『今はまだ、何だか分からないけど…。とりあえず、急いで戻ります』
 無線機のマイクを置くと、本社の前を通る道路の方へと目をやった。そこには道路を挟んだ向かい側の駐車場が見え、純一の青いスカイラインと、一台の古い路線バス、塗装が綺麗な大型観光バスが並んで止めてあった。スカイラインはともかく、古い路線バスと大型観光バスの持ち主が誰なのかは、水森は知らなかった。
「あそこに車を止めてあるのはきっと…」
 コンサートに行く気満々だった、社長の顔が目に浮かんだ。水森は願う気持ちで、幼稚園バスの運行を終えて、青島が戻ってくるのを待っていた。

 純一はというと、高村から路線バスの運用を代わり、乗客を乗せて神崎市街地まで来ていた。コンサートホールの最寄のバス停まで来ると、朝風ルナのファングッズを少なくとも1つは持っているファンたちが、コンサートホールのほうへ向かって歩いていくのが見えた。
「…本当だったら、コンサートに行くはずだったのにな」
 悔やみたくても、悔やみきれない。いくら仕事のためとはいえ、コンサート開演の直前になって、行けなくなってしまったのだ。
(ごめん、佐奈…。これでは、行けそうに無いよ)
「…気の毒だな」
 お金を払って、降りていく間際に嫌味を言う乗客がいた。その顔には見覚えは無いものの、一度共演したのを知っているだけに、目の敵に思っていたに違いなかった。
(あの野郎…)
 怒りがこみ上げてきたが、それを寸でのところで抑えた。神崎駅前ターミナルに着き、時計を見ると、既に開場時刻を過ぎ、開演時間まで後40分を切っているところだった。
「何てこったい…」
 近くの自動販売機まで行って、コーヒーを買って飲んだ純一だったが、コンサートへ行くことを諦めきれないためか、余計にため息が出てしまった。
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