モドル | ススム | モクジ

● 時のメロディ --- 6,突然の依頼(後編) ●

 契約が決まってから3日たち、純一は早朝に東海電気鉄道の本社へ直接出向いて貸切車両を借り受けた。点検などを早めに済ませると、時間のこともあるので、急いでテレビ局へと向かった。道中には運送屋のトラックや出勤途中の乗用車が多いものの、日中と比べれば比較的走っている車は少ない。
 テレビ局の正門の前を少し過ぎたところにバスを停止させた。駆け寄ってきた警備員に言付けをした。
「今日、こちらから貸切バスの依頼を受けた東海電気鉄道と申します。ところで、バスをどうしましょうか?」
「すみませんけど、敷地内に車が入れませんかね?」
「ここに停めると邪魔でしょうからそうしたいところなんですけど…」
「分かりました。私らで交通整理して車の方に少しの間止まってもらいましょう」
 事務所で構えていた警備員が出てきて、前後の車を停止させた。純一はそれを見計らってバスを一度前進させると、両側に注意しながら後退させて駐車場区域へと停止させた。
「朝早くからお疲れ様です」
「どうも。普段は路線バスばっかり運転いるんで後退は簡単に出来るはずなんですが、やはり貸切車はどうも勝手が違いまして、お手数をおかけしました」
 警備員にお礼を言っているときに、田崎らが建物から出てきた。後から出てきたのは番組のスタッフと出演する芸能人なのだろうか。
「先日はお世話になりました。今回、急に依頼を出してしまいまして申し訳ないです」
「いやいや…こちらこそありがとうございます」
「一応、バラエティ番組の収録なのですが、もしかしたら余計なことを頼むかもしれませんが、その際にはご協力いただければありがたいです」
「分かりました」
 運行の打ち合わせをしているときに、田崎の後から出てきた女性芸能人の1人が純一のところへ駆け寄ってきた。
「以前は助けていただいてありがとうございました。今回も急にお願いして…」
「すみません。この子が今回の番組進行役になる朝風ルナです。以前は私の不手際で彼女が遅刻しそうなところを助けていただきまして、ありがとうございました」
 田崎が合いの手をいれ、純一に朝風ルナを紹介した。
「その節はどうも。私の同僚に、ルナさんのファンが多いんですよ。あいつら、自分が行きたいって言う始末で、なかなか企画書とかも読めませんでした」
「そうだったんですか。ファンの方がいてくださるのは、本当に嬉しいです」
 それが、純一と朝風ルナの初対面となった。そのうちに芸能人などがバスに乗り込み、機材を積んだトラックなどもスタンバイして駐車場から出てきた。談笑していた3人もバスへと乗り込み、純一は出発の合図を伺った
「運転手さん、お願いします」
 スタッフの人に言われて、純一はバスを発進させた。
 目的地は山間にある温泉地『向日葵高原』である。昔懐かしい雰囲気の残す街づくりを住民たちが取り組んでいるため、観光客が多くなったことでも知られている。ただ、何故『向日葵高原』といわれるのかは純一も知らなかった。
 目的地である向日葵高原観光センターへ到着すると、バスを駐車場へと止めた。
 芸能人らが降りて撮影準備やリハーサルなどを行っているのを純一はバスの点検を行いつつ、その様子を眺めていた。点検が一通り終わって、鞄の中に入れておいた企画書などに目を通して時間を潰していたとき、リハーサルに同行していた田崎が純一を呼びにきたのだ。
「バスの移動ですか?」
「そうではなくて…。番組に出演して欲しいんです。案内役として、是非お願いします」
「…えっ?」
 突然の出演依頼に純一も戸惑いを隠せなかった。ただロケバスの運転という事でこの現場にいるだけなのだ。それに心の準備も出来ていない。
「急に出演しろといわれましても、何をどうしようもないじゃないですか」
「そこをお願いしますよ。もしものときは、スタッフが手助けしますから」
「…分かりました。それで失敗を連発しても、怒らないでくださいよ?」
 純一は近くの公衆トイレへ行き、洗面所で身なりを整えてからリハーサルが行われているところへ行った。番組の製作スタッフらと一応挨拶を交わしてから、カメラの前の様子を伺った。その前で何らかのリハーサルをしているアイドルたちを見ると、そこだけ華やいで見えた。普段はテレビを通してしか見ることの出来ない、まさしく高嶺の花だ。スタッフの1人にマイクを付けられると、純一は緊張してしまった。
「藤本さん、お願いします」
「もう少し待ってくださいよ。まだ、心の準備も出来ていないんですから…」
 一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、カメラの前へと歩を進めた。
(俺は、本当に出ていい人間なのだろうか?)
 カメラの前に立つのはもちろん、普段はテレビなどでしか見ることのないアイドルたちが、すぐ傍にいるのである。普段は全く意識していないが、やはり目の前に立たれると緊張してしまう。下心とかそういうのは無いが、あるように思われてしまいそうで落ち着かない。
「藤本さん、もう少し落ち着いてください」
「いや…急に言われてカメラの前に立って、落ち着くわけ無いでしょう。ましてや、アイドルの皆さんと映るなんて」
「大丈夫ですよ。もしものときは、ちゃんと手助けとかしますから」
 二度のリハーサルを行ったうえで収録が開始された。気持ちを落ち着かせながら、番組で指定されている名所などを、自分が知っている事を織り交ぜて案内し、共演者であるアイドルたちと巡った。
 途中で予想だにしなかった注文を製作スタッフにされてしまった。それは、収録のグループが2つに分かれ、1つのグループの方の出演者が、突然参加である純一と、番組の進行役である朝風ルナの、2人だけになった時のことだ。
「ルナさんと手を繋いで歩いてください」
「無理ですよ。そんなこと…」
「…嫌ですか?」
「嫌ではないですけど、無理に手を繋ぐような事だったらどうしようと思ったもので…」
 普通に考えれば、人気アイドルと手を繋ぐことのできる機会はまずないし、何よりも目の前にいる朝風ルナが、どうしてそれを望んでいるのか気にかかった。純一は戸惑いながらも手を繋いで歩く事になった。そんなこんなで、休憩を挟みながらの収録が終わったのは、夜のことだった。
「急に、無理なお願いをしてしまいましてすみませんでした」
 一日目の収録が終わり、宿泊先になっている旅館まで出演者らを送った後、旅館の駐車場にバスを止めて、車両点検を行っている時、番組進行役だった朝風ルナと、番組製作スタッフの1人が、純一のところに挨拶に来た。
「いやいや、いい経験になりましたよ。まさか、ルナさんたちと共演させていただけるとは思いませんでしたので…。私こそ、ありがとうございました」
「いいえ、礼には及びません。明日もよろしくお願いします」
 2人が立ち去った後、純一は車内外の点検を済ませて、旅館にチェックインした。そして、案内された客室に入ると、荷物を置いて一息つけると、運行日誌を記入し始めた。
 記入する項目を全て記入し終わり、企画書とかに目を通している時に、客室のドアを叩く音が聞こえた。ドアを開けてみると、そこには浴衣を着た女性が1人立っていた。帽子と眼鏡で顔こそ隠しているものの、それは紛れもなく朝風ルナだった。
「急に訪ねて、ごめんなさい」
「いやいや…。ルナさんが訪ねてくるとは、驚きました」
「もし宜しかったら…。私と旅館を抜け出して、少し歩きませんか?」
「えっ…?? もし、バレたら田崎さんや事務所の方が、お怒りになるんじゃないですか?」
「大丈夫ですよ。明日の下見みたいなことを言えば」
「そうですか?」
 結局、ルナに押し切られる形で外出する事になった。
 夜の向日葵高原は、近隣に立つホテルや旅館の浴衣を着た人たちが結構散策している。土産品店に立ち寄って土産を選んでみたり、飲食店へ入って、食事を楽しむ人などもいる。
「この辺のラーメン屋さんとかは、巷では結構有名なんですよ」
「そうなんですか。でも、こういうお店とかは取材断られそうですね」
「結構、こだわるお店が多いですからね。公に知られずに静かにやりたいんでしょう」
 そのうちに、射的などが出来る昔ながらの遊戯屋に通りかかった。
「射的やって行きませんか?」
「いいですよ。昔は結構やりましたが、最近では見かけなくなりましたね。こういう射的も」
 2人は遊戯屋の中に入り、利用代金を支払ってコルク弾を受け取ると射的台の前へ立ち、置かれていた射的の鉄砲にコルク弾をセットして構え、狙いを定める。2人とも最初の2発はなかなか当たらなかったが、3発目でようやく景品に当たりだした。何度か挑戦して景品を当てると、遊戯屋から出て、再び歩き出した。
 純一は小さなくまのぬいぐるみを当てたが、男がぬいぐるみを持って歩くのも恥ずかしかったため、何らかの小物を当てていたルナにあげることにした。
「どうぞ。これ、持っていってください」
「えっ? せっかく、純一さんが当てたのに…」
「このまま持って帰っても、どっちみちあげる人は誰もいませんから」
「ありがとうございます。さっきもずっと狙っていたのに当たらなくて…。嬉しいです」
「別に気にしないでくださいよ。明日とか、気まずくなるじゃないですか」
 純一とルナは、少しいいムードになっていた。それっきりのカップルとは知りながらも、手を繋いで温泉街の中を歩き、いろいろな名所を案内した。
 途中で缶ジュースを買って飲んだりしながら、束の間のひとときを楽しみ、旅館へ戻ってくると、ロビーで別れた。
 翌日も番組の収録に参加して、いろいろ雑談交じりの案内をしながら各所を回った。
 収録終了後は芸能人らの乗った観光バスを運転して、テレビ局へと送っていった。
 そこから貸切車両を借りた東海電気鉄道本社へ行って、車両清掃や運行日誌を記入した後で車両を返した。
 その後、青葉台営業所へ一度立ち寄ると、中にいた松本に土産話をせがまれた。
 純一も疲れてはいたが、道中などのいろいろな話をしたが、最後まで朝風ルナとテレビに出て手を繋いだことや、夜に2人で外出したことは話さなかった。
 しかし、後日にテレビでその内容が放送された事によって、その事実を知った北沢らは、ルナの真似をして純一をからかった。そんな彼らの本心は知れている。CDの発売記念イベントなどの特別な場合でなければ、握手してもらう機会とかもないアイドルと番組で共演し、その上に手を繋いで一緒に歩いたという、ファンであれば一度はそうしてみたいと思うことが出来てしまった純一が羨ましいのだろう。
「収録中に、朝風ルナ本人と手をつなげるなんて、羨ましいじゃないか。俺らなんて、願っても叶わないことなのにな」
「俺だって、最初はロケバスの運転手として行っただけなんだ。それが、あんなことになるとは思わなかったよ」
「もしかしたら、ルナさんは純一に好意を持っているかもしれないぞ」
「そんな事あるかよ。本当に好意を持たれているなら、嬉しい限りだけどな」
この時、純一は、朝風ルナがある一時期にもっとも身近にいた人物だという事に、気付きもしなかった。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2011 ACT All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-