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● 時のメロディ --- 5,突然の依頼(前編) ●

 翌日に2433号車の廃車が決定し、純一は2442号車を専用車に指定した。彼は入社後すぐに青葉台営業所に配属されてきており、最初のころは、違う車両を同僚の運転手とともに担当していた。
 配属から1ヶ月経ったくらいから、ほとんど2433号車を運転して乗務をこなしていた。
 しかし、寄託社員や入社1年目〜3年目の正社員では、基本的に専用車両をもてないのだが、藤本が配属されてきたときに車庫の隅で埃をかぶっていた2433号車が彼の目に止まった。その車両を見た彼は営業所長に相談して車内清掃や整備を行って営業に出せる状態に仕上げた。その後、再度営業所長と協議して、2433号車の専用車指定を受けたのだ。それ以来ずっと2433号車で乗務を続けていただけに、より愛着が湧いていたのだ。それだけに動かなくなったという事実を受け入れるのに時間がかかった。もし、あと数日間神崎駅に置いてあるようならば、エンジン以外にどの部分が壊れているのか確認し、どこかに部品が無いか探そうと考えたのだ。
「仕方ないか。でも、もう一度動かしたい…」
 2442号車に乗り込むと青葉台駅まで向かった。既に青葉台駅前のバスロータリーには多くの通勤通学客がいっぱいだ。これから電車で通勤通学する者もいれば、電車から降りてバスを待っている通勤通学客も多くいる。乗り場へ車両を止めると客扱いを行い、一旦バスを降りて売店へと行くとコーヒーを買って飲んだ。いつもは出勤時間の30分くらい前に来て担当車両の点検や清掃を行ってから乗務に出かけていたのだが、今日に限って寝坊してしまい出勤時間ギリギリになってしまったため、点検と清掃を行ってすぐに点呼を行って営業所を出てきたため、休憩している時間がなかったのだ。
「いつもの事なのになんで寝坊するんだ。情けない」
 コーヒーを飲みながらぶつぶつ言っていると、藤本に見知らぬ人が話しかけてきた。
「すみません、BlueAutoっていう車屋さんに行きたいんですけど…」
 彼が振り向くと、そこには帽子を被ってメガネをかけた女性がいた。
「神崎駅行のバスに乗って高倉記念病院前というバス停で降りるとすぐですよ」
「そのバスはいつ出ますか?」
「もうすぐ出発しますよ。あのバスにご乗車になってお待ちください」
 彼女の質問に答えると、自分の担当する2442号車を指差して言った。
「ありがとうございます」
 彼女はそういうと去っていった。そして純一は空になったコーヒーのビンを売店へ返すと、2442号車へと乗り込んだ。ちょうど回送車が入ってきた。その運転手と合図を交わすと、バスを発車させた。朝の通勤通学の時間帯だけあって、車内には学生やサラリーマンらで溢れかえっている。一番前の座席には、駅でBlueAutoまでの道のりを聞いてきた女性が座り、横の窓から景色を眺めるなどしていた。運転している純一は乗客を気にしつつバスを走らせていた。
『次は北上、北上です』
 北上というバス停に停車すると、青葉台駅から乗っていた多くの学生が降りていった。またバスを発車させると、旧停留所だった場所に停止してアナウンスをかけた。
「後続車両を先に行かせるため、少々停車いたします」
 後続の自動車が何台か追い抜かしていってから再び発車させた。普段のことなので、別段の変わりもなく運転をこなしていく。木々に囲まれた道を過ぎて病院の建物が近づいてきた。
『次は高倉記念病院前、高倉記念病院前です』
 彼女がなかなか降車ボタンを押さなかったため、純一は車内放送のスイッチを入れた。
「お客さん、次が高倉記念病院前ですけど、降りますか?」
「えっ? すみませんでした。降ります」
 高倉記念病院前バス停に停車すると、彼女は降りていった。
「なんかへんな乗客だな…」
 そうつぶやくと、再びバスを走らせて神崎駅へと向かった。
 そこにはナンバープレートが外された2433号車が、バス待機場の奥の方に眠っている。純一は終点まで乗ってきたバスの乗客を降車場で降ろし、2442号車を待機場の奥の方へ止めた。そこには、前日まで乗務していた2433号車が、昨日の状態のままで留置されている。
「お前も一人ぼっちでこの場所にいるのも、寂しいだろうな」
 動かない2433号車に話しかける。いつだかに、この場所へクレーン車などを持ってきて、この車両を搬出する予定があるのを純一は知っていた。何とか直せないものかと純一は苦慮していたが、未だに解決策を見出せずにいた。
 そんな中、純一の元へ電話がかかってきたのは、その日の午後だった。神崎駅から青葉台駅まで運転して到着後に昼休みに入り、次の便の時刻が近かったためバス乗り場へ車両を移動させていたときに電話が鳴った。
「はい、もしもし」
『どうも、藤本さんですか。先日お世話になりました、田崎といいます』
「その件につきましてはどうも」
『あなたのおかげで助かりました。本当にありがとうございます。実はですね…』
 田崎が電話をかけてきたのは、御礼のためだけではなかった。
『先日に会社の方へ話をしたのですが、藤本さんにお願いしたい事があり電話しました』
「えっ?私にですか?」
『はい。実は貸切バスで話が来ていると思うのですが、それの運転手を頼みたいと思いまして』
「ほうほう。まだちゃんとした話を聞いていないので分かりませんが…運転手を指名なんですか?」
『そうなんですが、藤本さんを指名したのは私でも会社でもありません。朝風ルナなんです』
「…朝風ルナさんですか。最近は結構名前だけは耳にするんですが…」
『私の口から言うのも難なのですが、是非とも藤本さんにお願いしたいのです』
「…分かりました。会社から話を聴いた上で検討します。断る事となったらすみません」
 そういって、純一は電話を切った。
「(あの朝風ルナが俺を指名? …いったいどうしてだ??)」
 あまりにも急なことだったので終始混乱していたが、現在は路線バスの仕事中なのだ。一度運転席を立ち、バスから降りて体操をすると、再びバスへ戻り、運転席へと座った。発車時刻となると、ドアを閉めて再度確認をすると駅を後にした。
 乗務中であっても、電話で聞いた内容が気になって仕方がなく、いつもは絶対にしないミスをしてしまうのだ。バス停を少し通過して停車してしまったり、停車してもドアを開けずにいて、バス停で待っていた乗客に言われるまで気づかなかったりとか、その度に何度も謝るものの、そのミスを知らず知らずのうちに繰り返してしまい、純一本人としては散々な乗務となってしまった。
「(だから、乗務中に何を考えているんだ… 何か情けないぞ今日…)」
 一日の乗務を終えて営業所まで戻ってくると、営業所の建物の中で同僚たちが騒いでいるような声が聞こえた。ある程度の車内点検と明日の準備を終わらせると事務所の中へ入った。すると、事務所でテレビを見ていた松本が藤本に話しかけてきた。
「お前さ、桜崎プロダクションから貸切バスの仕事が来たの知ってるか?」
「そうなのか。俺は全然知らんよ。」
 本当は違う。その仕事に関する電話を、芸能プロダクションのマネージャーから直接電話を受けて依頼されたのだが本当のことは話せない。あくまで知らないふりをする事にした。
「芸能事務所が貸切バス依頼するのは珍しくないか??」
「地方ロケとかだろうけど、諸事由でロケバスが使えないから頼んだんだよ多分」
「お前、だいぶ冷めてるよ。俺だったら芸能人と近づける絶好のチャンスだと思うけどな」
「少し考えてみろよ。俺たちなんかと比べたら芸能人なんて高嶺の花だ。そう簡単に近づくことも出来ないだろうしさ、その芸能人が大御所だったりしたらガッカリだろうよ」
「それがさ、貸切バスの依頼に事務所の関係者の人が企画書とかを持ってきたのさ。出る芸能人は現在を駆け抜けている人気アイドルたちなのさ。勿論、一番人気の朝風ルナも出演するんだってさ。出来れば俺が出たいなこの仕事」
「そんないい仕事、本社にいっちゃうんじゃないか?」
「そうだよな。あの事務所からは本社の方が近いし、肝心の貸切車は本社しかないのにな。わざわざ此処の営業所まで来て仕事の依頼するなんて普通に考えればないだろうな」
 その時、北沢が2人の会話に加わった。この話で一番驚いたのは彼だと聞いたが、何をそこまで驚くのだろうか。
「もしかしたら、芸能人の誰かが、この営業所の運転手を指名したんじゃないか??」
「どうだろうな…。だいいち、何で運転手を指名できるんだろうな。俺らはホストかよ」
 松本が所長の机にある企画書を手に取ると、中に挟まれていたであろう1通の小さな封筒が床に落ちた。その封筒には事務所名義の印字はなく、表面に『藤本 純一様』と書かれていた。
「何だこれ? しかも、純一宛に…」
 わけが分からないまま、松本はその封筒を純一に手渡した。
「何だか分からないけど、あて先が純一になってるんだよ」
 何が何だか分からないまま、封筒の裏面を見た。そこには差出人の名前が記してあったのだが、その差出人は思いもよらない人物だった。
「朝風ルナ…」
 封筒を開けると、中からは2枚の便箋が出てきた。
「手紙か…。朝風ルナがいったい何で俺に手紙を??」
 気づかれるとマズいと感じた純一は、手紙を封筒に戻してポケットの中にしまうと、急いで帰り支度をして、事務所を出ると車に乗り込んだ。
 営業所から少し離れたところにあるコンビ二に寄ってから、手紙に目を通した。しかし、手紙に書かれた気持ちを理解する事が出来ないまま、再び封筒に入れてカバンの中にしまいこんだ。
「…朝風ルナがどうして、俺の事を知っているんだ?? 何故、俺に運転手を頼んだんだ??」
 翌日に田崎が青葉台営業所を訪れて商談が行われた後、貸切バスの運行契約が決まり、運転手は依頼どおりに純一が就くことになった。
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