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● 時のメロディ --- 15,朝風ルナ ●

「やっぱり難しいな」
 教習を終えて、佐奈は教習所に乗ってきた自分の車の運転席に座った。
 引退を発表する前から教習所へ通い始めてから早3ヶ月。仕事の合間に通学していたが、引退発表後に有給休暇をとるなどして、教習所に通う時間も作れたため、ここ数日はレコーディングの仕事こそ挟まったが、自動車教習所に集中して通い、教習を重ねたため、とりあえずは路上教習の段階まできていた。
「でも、本当に芸能界やめて…大丈夫なのかな」
 既に芸能界引退を発表し、さよならコンサートも行ったものの、心のどこかにまだ未練が残っているのである。まだ事務所に籍は残っているし、マネージャーも外されてはいない。それに、多くのファンからの復活要望も未だに多い。
 CDショップでも最初に目に入るのはルナのポスター。CDは引退発表前と変わらず店の最前列にある専用のコーナーに陳列されていた。一度、CDショップに入ると試聴できる機械で、自分の歌を聞いてみたこともあった。機械を通して聞こえてくる自分の歌声が、自分ではない、ほかの誰かの歌声にさえ聞こえてしまう。
(…あの時は、間違いなく本心だったけど、今は揺らいでいる。どっちへ行けば最善の道なのかしら)
 車を運転して教習所を後にすると、同じアイドルである友達と待ち合わせをしている、喫茶店へと向かった。
「本当に、自分で車を運転しているんだね」
「時々はね。マネージャーさんの車に乗せてもらって仕事へ行くこともあれば、自分で行くこともあるけど」
 喫茶店の窓際の席に座って、2人で紅茶を飲んでいた。こうして、親友である神本さくらと喫茶店で一緒にお茶したのも久しぶりだった。2人とも仕事が忙しくなってから、電話を通してしか、話をしていなかった。
「私なんて到底無理よ。免許を取るのを忘れているんだもん。なかなか行く暇がないのよね」
「さくらも仕事に目処を付けて、取りに行けばいいのに」
「だめだめ。よかれと引き受けた仕事で、忙しくなりすぎよ。誰かさんのせいで」
 佐奈が、ルナとして出演していた番組のどれくらいかを、代役として引き受けたのは、さくらだった。
「悪かったわね。でも、仕事が多くなって、少しは潤っているんじゃない?」
「…痛いところを突くわね。雑誌モデルの仕事がほとんどだった私に対して、佐奈はテレビ出演が多くて羨ましいと思ったけど、いざ自分が出演する事となると、上手くいかないね」
「でも、雰囲気とかに慣れちゃえば、結構楽しいけどね」
 佐奈はティーカップを置くと、手カバンに入れていた教習所のテキストを取り出した。
「標識とかの意味を覚えれば、結構簡単に出来るよ?」
「どうも。それにしても、車の免許を持っているのに、どうしてテキストもっているの?」
「大型自動車の免許を取ろうと思って、教習所に通っている最中なの」
 佐奈の何気ない一言に、さくらは驚いてしまった。
「大型免許を? トラックかバスを運転するわけ??」
「将来的には、大型2種の免許をね。路線バスの運転手を目指して」
「…佐奈。今日はエイプリルフールじゃないんだからさ。悪い冗談はよしてよ」
「冗談じゃないよ。本気だから」
 さくらの手からティーカップが落ちてテーブルの上に落ちると、中に残っていた紅茶がこぼれて、机の上と、さくらの服にかかってしまった。
「熱っ!」
 それに気づき、佐奈は急いでテキストを置くと、手にした手拭きで、紅茶のこぼれたテーブルを拭いた。
「ごめんね」
「いいよ、別に。それにしても…佐奈、相当本気みたいね」
 さくらは紅茶で濡れてしまった自分の衣服を拭くと、店員さんを呼んで紅茶を頼みなおした。
「もしかして、あの運転手さんと何かあった?」
「…あの運転手さん?」
「知らないフリしてもダメよ。だいぶ前の向日葵高原ロケの時に、私らの乗ったバスを運転してきて、その後で急に案内役に出てきた、あの藤本という運転手さんよ。ロケから帰ってきた後とか、ものすごく嬉しそうだったよ?」
「えっ? それは、それでね…」
「…図星でしょ」
 頬を赤らめて、外の景色を向いてしまってた彼女の様子を見れば、ほとんど察しはついてしまう。
「その後も、駅前でバス運行の継続を訴えていた運転手さんたちに混じって、署名活動に参加していたのも、あの運転手さんのことが気になるからじゃない?? 普通の芸能人でも、そういう事は出来ないよ」
「お見通しか…」
「佐奈の事くらいはね」
「やっぱり、気心知れた友達は頼りになるよ」
「どうしたの? 急に改まっちゃってさ…」
「ねえ…。さくらはどう思う?」
「なあに??」
「私はさ、引退すると言った時は本気だったのに、今になって、引退して大丈夫か、迷い始めてね」
「何よそれ…??」
 急に神妙な顔になった親友の顔を見て、さくらは訝しげに聞いた。
「芸能界の世界から飛び出して、新たな道へ進むのが、今になって不安になってね」
「何をいまさら…。自分で決めて、何を立ち止まる必要があるの??」
「…考えてみるとね。本当に思い切ってしまうのが多かったの。でも、今回のことだけは、どうしようもなくてね」
「でも、私が芸能界に戻ったほうがいいと言ったら、佐奈はそうする?」
「…分からないよ」
「人の意見に委ねて、自分の人生を組み立てるのもいいかもしれないけど、いつかは後悔してしまうことになるよ。時には、自分の意見も貫いていくことも大事だから」
「自分の人生…」
「芸能界へ戻るか、引退して一般人になる。どっちへ進んでも何かしらで後悔すると思うよ。でも、両方の人生を選ぶことは間違いなく出来ない。どっちの人生を選んだら幸せかは、結局は自分しか分からないもの」
「さくら…」
「これから、少し付き合ってもらおうかと思ったけど、また今度にしましょう」
 彼女がその後に何か言いかけながらも、紅茶代を出そうとしたが、佐奈は止めた。
「さくらが出さなくてもいいから。私がこぼさせてしまったようなものだから、払うよ」
「そう? 今日はそうさせてもらうわ。ありがとう」
 さくらがタクシーで帰っていくのを見送ると、佐奈は自分の車で喫茶店を後に走り出した。
「私だって、自分が後悔する事が少ない方が分かれば苦労しないよ。それにさ…」
 赤信号で止まって、それを言いかけたときに後ろからクラクションが聞こえた。それも同類の自動車ではなくバスのものだった。それに気づいて前進した時には、行こうとしていた道をそれてしまっていた。
「…何を考えているんだろう」
 丁度通りかかった花屋に立ち寄ると、何も考えないまま適当に花を注文して束ねてもらい、言われた代金を支払って、花屋を出た。
「こんなに買ってまで、花束にしてもどうしようもないのに…」
 手に持っている花束はそんなに大きくはないが、花瓶に挿せる本数を超えているし、好みの花を買ってはいなかった。
「そういえば…。この花は、愛ちゃんが好きだったよね。せっかくだから、会いに行こう」
 その花束をもって訪れたのは、友達が通っていた高校跡地に程近い場所にあるお寺だった。階段を上り、目的地まではそう長く歩かなかった。
「久しぶりに、愛ちゃんに会いに来たよ」
 目の前に立つ墓石にそう声をかけると、花束を解いて半分に分けると、それを墓石についている花たてに供えた。
「あれから…何年たったかな。今でも私は、迷いを抱えたまま、生きてますよ」
 その場にひざをついて座ると、そっと手を合わせながら呟いた。その墓石には、友人『相澤愛美』の名前が刻まれている。その悲報を聞いた時、彼女は遠くで仕事をしていて、駆けつけることが出来なかった。
「ゴメンね。あの時、傍にいてあげられなくて…」
 ただぼうっと見上げていた時、その場所に近づいてくる足音が聞こえた。その場から離れようとするが、なぜか動かない。
(…誰?)
 近づいてくる足音の方を振り向くことも出来ないまま、近づいてくる足音を聞いていた。
「…佐奈?」
 聞きなれた声。そのまま立ち上がって足音がしたほうを見ると、そこには花束を持った純一が立っていた。私服ではなく、見慣れている東海電気鉄道の制服を着ている。
「やっぱり、来ていたのか」
「あれ? 今日は乗務していないの??」
「…まあね。新会社の設立準備で、いろいろと回っていたんだよ。なぜか知らないけど、急に来たくなってな」
「花たては、先客がいてすみませんね」
「それはいいよ」
 純一もその場へ座り込むと、そっと手を合わせた。その時に、何を呟いていたかは佐奈は分からなかった。彼にすれば、彼女に知ってほしいことでもないだろう。
「でも、その花をどうするの?」
「…でも、本当にどうするかな」
 2人は愛美が眠る墓を後にして、寺の駐車場まで降りてきた。純一は相変わらず花束を手に持っていた。
「佐奈がアイドルになっていることは知らなかったけど、ルナ名義で発売された歌のほとんどが何となく、歌詞は愛美が書いたような感じがしていたんだよ。きっと、何らかの形で関係があったんだろうと思っていたけどな」
「愛ちゃんの歌詞じゃなくなった3年前から、本当はCD出すのも嫌だったの。それでも、それに似た歌詞を自分で書いて、曲をつけてもらって、何とか出していたけどね」
「そうだったのか。何か3年前から、歌の雰囲気が何となく違うような気がしたんだよ。それでも割合近かったような」
「それでも、聞いていてくれてたの?」
「他のアイドルとかはさっぱりだったけど、朝風ルナのCDだけは、借りたりして聞いていたよ。特に気に入ったのは、後で買ったりとか」
 まさか、純一がルナ名義のCDを買って聞いているとは思いもしなかった。
「…もし、朝風ルナの正体を私だと分かっていても、あの日のコンサートには来てくれた?」
「多分、行っただろうね。チケットを貰っていなかったら、何とかチケットを入手してな」
「本当に?」
「嘘はつかないよ。どれだけ朝風ルナの歌には、心折れそうな時にどれだけ救われ、夕方のラジオ番組に元気を貰ったか分からない。そのアーティストのコンサートだから、絶対に行ったと思う」
「あのラジオも聞いていてくれてたんだ。あと…一つだけ聞きたいんだけどいいかな?」
「いいよ」
「私が芸能界に残るといったら、純一君だったら喜ぶ?」
「…それは分からないな。でも、今の人気アイドルとして、歩んでいったほうが悪くはないと思う」
「そうかな。でも、私は芸能界から去るのも後悔してないよ。そして、これだけは純一君に信じて欲しいの」
「なに?」
「芸能界を引退する事を決意したのも、純一君と歩いていこうと決めたのも、本当だから」
 純一には思いがけない言葉だった。
「後悔…してない?」
「後悔しているかもしれないけど、いつまでも後悔しているとか言っていたら、そこから前に進めないじゃない」
「…そこまで本気だとは、さすがに気づかなかった」
 そこまで言われたら、さすがに純一は芸能界に慰留することは出来なかった。
 それに、だいぶ前に電話で『本当だったら、佐奈についてきてほしい』といったのも事実だ。いまさら、その言葉を撤回するのも、気が引けてしまった。
「…大型免許を取りに行っているんだしな。今更、後には戻れないか」
「だから、本気だって言ってるの」
「もう、芸能界に戻れとか、俺は言わない。いつか、一緒に路線バスの運転が出来る事を期待しているよ」
 純一は手に持っていた花束を佐奈に渡した。
「花束もっているのも、少し恥ずかしいからさ。佐奈、大型免許が取れるように頑張って」
「ありがとう。ちゃんと免許が取れるように頑張るね」
 佐奈は少し気が楽になった。車で家に帰る途中、再び自動車教習所へ立ち寄ると、予約し忘れた教習の予約を入れた。心なしか、駐車場にとめてあった教習用のトラックが少し小さく見えた。
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