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● 時のメロディ番外編『最後のコンサート』 --- 16(最終話),選んだ幸せ ●

「車両は大型1台、日帰りですね」
 青葉台交通の事務所で、佐奈が貸切バスの依頼の電話を受けていた。
 芸能界から引退した当初、彼女はまだ大型2種免許を持っていなかったため、一旦は営業・事務担当ということで、青葉台交通社員の仲間に入っていた。現在では大型2種免許を持っているため、バスの運転手の仕事もしているが、時々は事務の仕事をしている。
『はい。番組出演者を乗っけるやつなんで、ちゃんとしたのをお願いしますね』
「かしこまりました。確かに、番組ロケバス用の貸切バス運行の件、承りました」 
『それでは、宜しく。 えっと…。元マネージャーとして、聞いてもいいかな』
 依頼してきたのは、彼女がアイドルだった時に担当してくれていたマネージャーの田崎だった。現在もマネージャーの仕事をしているが、傍らでは番組製作にも携わっている。
「…何ですか?」
『芸能界から引退したこと、後悔してますか?』
「どうなんでしょうね。アイドルの頃と比べたら、仕事はキツイですけど、また違うことを経験していくのは、とても楽しいですよ。いまさら、後悔できるわけないじゃないですか」
『でも、君みたいな子が、バスの運転手になるなんて思わなかったよ。あのまま芸能界にいたら、何人もの人が、君を幸せにしてあげたいと思っていただろうにね』
 元マネージャーから突然出てきた言葉に、佐奈は言葉を失った。
「…もう、過去のことですから。私は一番好きな人と、一緒に幸せを作っていく道を選んだんです。たとえ、芸能界に残っていたとしても、他人がくれる幸せなんて、私は望まないですよ」
『何か、君がうらやましいね。本当の幸せを、僕より先につかんだみたいでさ』
「何で、田崎さんに言われちゃうんですか?」
『朝風ルナだったときより女の子になっているように、電話から聞こえる君の声が、そう聞こえたからかな』
「何ですか、それ?」
 田崎の答えに、佐奈はついつい笑ってしまった。
『やっぱり、計画変更でさ、大型2台にしてもらえないかな。せっかくだから、久しぶりに君の顔を見たいな』
「…分かりました。大型2台ですね。ちゃんと、1台は私が運転していきますよ」
『よろしく。マイクを置いて、バスのハンドルを握る君を見るのを、楽しみにしているよ』
 電話が切れて、受話器を置くと、佐奈はデスクを立つと、一旦事務所の外へ出て行った。
「…確かに、芸能界にいた方が、また違う幸せを得られたかもしれないけど、今の私は、これで十分幸せですから」
 最後のコンサートの翌日、純一と佐奈は籍を入れ、夫婦となった。それまでは、ステージとかで華々しく活躍していたアイドルだったのが、今では小さなバス会社の社員に収まっている。
 芸能界で、アイドル『朝風ルナ』として佐奈を見てきた人たちは、きっと彼女は間違えた選択をした、そう言うだろう。
 でも、佐奈は自分の選択を後悔はしていない。何より、一番好きな人の傍にいる事を選んだのだから。彼女は大きく背伸びをすると、事務所の中へと戻っていった。 END
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